連休修了/その修業は何か意味があるの?

 今日は1日中ネットでお部屋探し。で、引っ越しは若干諦め気味。3月になって引越しする人が増えたら部屋が空くのかもと淡い期待を持ちつつ、もうしばらくは続けてみようと思う。一番良いのは宝くじですな。駅前の部屋を借りるのではなく買ってしまいたい。まあ、当たったら仕事すら辞めてしまいそうな勢いでもありますがw 仮に当たったら技術士の総監が取れるまでは続けよう。



 テレビを見ていたら仏教の坊主が出ていた。私の家は何と言うか『ごった煮宗教』で片方の祖父は神道、片方の祖母はカトリック(だから墓石には戒名ではなく洗礼名が刻まれている)、お寺に墓石はあるし、ここまで宗教がバラバラの家庭も珍しいと思う。
 で、そんなことはどうでも良くて、そもそも修行って何の意味があってやってるのかなと思った。別に宗教儀式だから修行することによって鎮魂を執り行おうが、世界平和の祈ろうが、悟りを開こうがそれはどうでもいいのですが、創始者の釈迦自身が、修行(と言うか苦行)は心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って途中で辞めてるのだから、意味がないんじゃないかと。
 確かに、全く修行を積まない坊主に有り難味は感じられませんが、『無駄に』体を痛めつけるような修行じゃなくても、『意味のある』修業は出来そうなんですがね。信者のために写経を延々と続けるとか。
 修行で一番何が気に食わなかったかと言えば、ご飯の食べ方。生産者を冒涜してるとしか思えない不味そうな食い方(音を立てない等)が修行かよ。世界平和だとか悟りとかに重要なのは絶対そこじゃないと思うね。少なくとも生産者に対する愛が微塵も感じられない。